上町第2回 「百々越前」のまちから「小高坂」を歩く

「百々越前」のまちから「小高坂」を歩く
①古絵図に見る円満寺と常通寺
②櫻馬場
③中日不再戦・槇村浩・竹本源治・馬場孤蝶・寺田寅彦の碑
④谷垣守・真潮邸跡
⑤植木枝盛邸趾
⑥開成門
⑦葛岡神社跡
⑧葛岡神社跡
⑨野村維章邸跡
⑩野村維章邸跡
⑪才谷屋墓所
⑫石川七財邸跡
⑬植木枝盛墓所
⑭若一王子宮・吉良神社
⑮池内蔵太誕生地
⑯望月亀弥太誕生地
⑰広井盤之助屋敷跡
⑱山内大膳亮邸跡
⑲師範学校跡
⑳国沢新九郎生誕地
㉑百々越前邸跡
 出雲大社前から櫻馬場に移動する。江ノ口川に架かる円満橋と常通寺橋、これは二つの寺にからむ橋名である。寛文9(1669)年の絵図には長宗我部元親にゆかりある常通寺橋の見つけにあり、脇寺6つもある大伽藍で描かれ、円満寺も広い寺域を有している。かつては円満寺の境内や、もと師範学校の北には、高知城三の丸の土砂確保につぶした、中高坂山の名残を思わすかすかな丘も明治の末期まで残っていたという。
 ここに馬場が作られたのは寛文元(1661)年、脇に櫻を植えたので櫻馬場の名があると言う。くすの木々の間には「中日不再戦」や槇村浩、竹本源治、馬場孤蝶、そして寺田寅彦らの碑(いしぶみ)が並ぶ。
 谷垣守・真潮邸跡の碑が、塀の間に挟まれてたつ。谷秦山から垣守、真潮にと継がれた谷家の学は、土佐藩教学の中心となり「谷門の学」(こくもんのがく)と称され、土佐勤王思想への影響は大であった。自由民権運動の理論家「植木枝盛邸趾」もすぐ近くである。いま家屋はないが書斎は自由民権記念館に移築され活動の軌跡を語る。
 小津高校西門は九反田から移築の「開成館」の正門である。三間一戸のくぐり戸付き薬医門。その雄大な木割りに、土佐の近代化拠点である開成館の勇姿が偲ばれる。
 越前町の葛岡神社跡は、吉良左京進親実や近臣の7人を祀る。親実は長宗我部家の後継問題で元親に異を唱え切腹、人々は邸跡に祠を建て霊を慰めたという。いま祠は地域の氏神若一王子宮に遷宮されている。大膳町の海援隊士野村維章邸跡から、小高坂村の才谷屋墓所や岩崎弥太郎の三菱会社創立に尽力した石川七財の邸跡、さらに植木枝盛墓所の確認も忘れずに歩く。若一王子宮、吉良神社にまいる。吉良神社社殿右前の石鉢脇の説明板に「御祭神吉良左京進親實公が長曾我部元親の命により切腹し介錯された首を洗った鉢と伝えられる」とある。戦国の世の非情と戦慄がせまる。
 西町へと急ぐ。土用竹に囲まれた畑地に武士の邸を思い、錆びて剥げ落ちた町名表示板、家主なき古民家にかつての西町の風情をおもいつつ、池内蔵太、望月亀弥太に思いをはせる。池は五島列島塩谷崎沖でワイル・ウエフ号とともに26歳、望月は池田屋事件で27歳の命を落とした。日本仇討史の最後を飾る美談の主人公広井盤之助屋敷跡の標柱も民家の門前に健在である。
 大膳様町、そこは山内忠義の次男忠直の子、山内大膳亮の邸地にちなむ町名である。中村3万石から若年寄に昇進するが、8日で御役後免、果ては綱吉の怒りに触れお家取り潰しとなる。駐車場片隅の短く傾いた石標が悲運を語る。師範学校跡から日本西洋画の祖、国沢新九郎生誕地の碑も城西公園で存在感を示す。高知城築造総奉行百々越前邸跡の碑文が中天の陽光に輝いて見えた。越前は今も町名となってその名を残している。
 歩き終わった時はすでに正午を過ぎていた。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子