第5回 家老付き武士の町から堀端へ

高知お城下物語2017
第五回 家老付武士の町から堀端へ(探訪地/南与力→堀詰)
①南会所跡
②高野寺
③板垣退助先生誕生之地
④片岡健吉先生誕生の地
⑤松渕川跡
⑥片町由来
⑦唐人町・朴永人(ぼくえいじん)と豆腐
⑧豊房、潮江川から鏡川に
⑨鏡川河畔絵地図
⑩天神橋とその歴史
⑪後藤象二郎先生誕生地
⑫南与力町とT字路
⑬実川八百五郎(じつかわやおごろう)胸像
⑭国沢城跡
⑮堀詰の景観
⑯立志社跡(町会所跡)
⑰県詩・自由は土佐の山間よりいづ
⑱使者屋橋と堀川
⑲新京橋とその界隈(昭和9~13年頃)
⑳絵巻にみる堀詰
 小雨の中、高知城追手門から帯屋町「南会所」にでる。武家にかかわる政務担当の役所で、武士の牢屋「揚屋(あがりや)」もあった。土佐勤王党主武市瑞山はここで割腹。「武市瑞山先生殉節之地」の碑に瑞山をしのぶ。「月さま雨が、、、」「春雨じゃ、ぬれてまいろう」。傘の中に誰かのつぶやきも聴こえる小雨であった。
 中島町通り高野寺。その門前、大きな自然石に「板垣退助先生誕生之地」の刻字も深い。寄り添う「死生亦大也」の無形の碑もまた共に、幕末明治の歴史彩った人物にふさわしい舞台装置に見えた。小雨は碑に浸みて一層重厚さを醸していた。
 「片岡健吉先生誕生の地」の碑も、すぐ東の駐車場の片隅に観た。「戊辰東征に従軍、愛国公党の結成、立志社社長、初代高知県議会議長、衆議院議長、同志社大学学長、日本キリスト教伝道局総裁」という経歴の刻字もまた、土佐の偉人として燦然と輝いて見えた。
 松淵川公園に憩う。江戸期の古地図はここに水の流を記している。公園の緑にそのことも確認し、南与力町から片町そして西唐人町、鏡川へと歩を進める頃は、傘も荷物と感じる空模様となった。南与力町は大橋通りから東へ中島町の南に並行する町、家老乾市正の与力等が住んだことに由来するという。片町は鏡川堤防内側の片側町で、元禄の頃までは土手町とも言った。唐人町は鏡川北岸堤防外側の片町で、秀吉の朝鮮出兵の時、長宗我部氏が連れてきた朝鮮慶尚道秋月城主朴好仁等を、山内氏は浦戸からこの地に移し、地租を免除し城下での豆腐の専売を許したという町である。
 鏡川の洪水には、ここに築城した長宗我部氏も山内氏も、城下町経営に苦慮した史料は多い。5代藩主豊房は「影を映すこと鏡の如し」と祈りをこめて鏡川と名づけたという。庶民は上流を雁切川、下流を潮江川とよんでいいた。当時城下町近辺でこの川に架かる唯一つ橋は大橋であった。それは真如寺橋、天神橋、さらに天神大橋と橋名をかえ、木橋からコンクリートにその姿も変えていまに伝わる。
 橋の北詰片町の教会の門前には「後藤象次郎先生誕生之地」の碑がある。幼い頃は一つ違いの「いのす」(乾退助)と「やす」(後藤象二郎)は、「読書習字を事とせず唯日に喧嘩をこととし相撲を好み闘犬を闘わし遊戯一として」いたと『土佐偉人伝』は伝える。後藤もまた山内容堂に抜擢され大監察から開成館奉行、そして大政奉還の立役者となり、後には自由民権運動、大同団結運動へと幕末明治の歴史にその名は残る。
 南与力町に居を構えた与力達を古絵図で探りつつ東のホリ(松淵)を目指す。
 手にした「下町浦戸湾風俗絵巻」に見る、堀詰の光景、堀に浮かぶ荷船松淵公園の緑に、また旧制高知高校卒業生が在学当時親しんだ新京橋界隈を描いた絵図に、過ぎた昔の賑わいを思いつつ本日の昼食場所「二十四万石」へ急いだ。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子