第4回 中州の町から散田屋敷・御鷹部屋そして金子橋に

高知お城下物語2017
第四回 御鷹部屋から中洲の町へ(探訪地/鷹匠→中島→八軒→片町)

1、金子橋跡
2、金子橋遺跡
3、第六小学校
4、馬場辰猪誕生地
5、称名寺
6、フランク・チャンピオンの碑
7、水丁場の標柱
8、日本最古の沈下橋跡
9、近衛兵之碑
10、別格官幣社山内神社
11、大政奉還を慶ぶ山内容堂公銅像
12、十一家老寄進燈籠
13、御親兵第一大隊第四小隊寄進燈籠
14、御鷹部屋跡
15、山内容堂公屋敷跡
16、散田屋敷跡
17、旧山内家下屋敷長屋
18、山内容堂・西郷南州会見の地(水哉閣)
19、馬場孤蝶歌碑
20、孤蝶・藤村交歓の地
21、鏡川大堤防跡
22、八軒町町名由来地
23、中島町町名由来地
 高知城追手門前から中州の町をめざして歩きはじめた。鏡川の大洪水が堤防を破り、この地に東西の溜池二つを痕跡として残した。両池の間は、「宛然(えんぜん)(さながら)たる島嶼(とうしょ)(小さい島)の状をなせる」によって「中島」と言い初めたと古書は言う。そこに八軒の侍屋敷があり八軒町の名をいまにとどめている。
 この日の太陽は5月とは思えない厳しさを歩人にそそいだ。7軒の侍屋敷に立ち退きを要求しできた散田邸跡に、藩主の下屋敷を思わすものは何もないが、薩摩藩主島津久光の使者として訪れた西郷隆盛。長州や幕府の使者や要職たちとの面談はしばしば行われ、幕末土佐の政治交渉の場として重要位置を占めた歴史は残る。建物として唯一、屋敷警固番役の足軽らが居住したという長屋が、国指定の重要文化財として当時の間取りをそのままに歴史を伝えている。道を挟み西側の鷹匠公園は、山内容堂の邸跡を示す石柱の刻字が目を引く。ここは古くは「御鷹部屋」、その西は鷹匠たちの居住地であったことを鷹匠町の名が伝える。
 この日、山内神社の境内には思い思いの店舗がならび、その賑いは山内氏の歴史を語る隙間を与えなかった。参道に並ぶ燈籠の刻字から、寄進者やその時代を読み、ギヤマンの杯を右手にゆったりと脇息にもたれて座す「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」の銅像をネタに、幕末土佐藩政をあつく語ろうとの段取りは賑わう人並みで消えた。「馬場弧蝶の歌碑」も、「弧蝶・藤村交歓の地」も、所在の場所を知らせて日本最古の沈下橋に話題をはこんだ。昭和2年、中国西湖の石造沈下橋を参考に、コンクリート造りの沈下の架橋を発案した高知市土木課の青年技師らの努力に感動しつつ、江戸時代鏡川の洪水災害への備えを伝える水丁場の標柱のある堤防に上がる。上町の観音堂から東の雑喉場への鏡川沿いを12の丁場に分け、12の組が出動しての水防体制、各組長は家老、その下の組頭が組を率いたという。四角い石柱の上流に向く面に「従是西六ノ丁場」下流に向く面には「従是東七ノ丁場」との深い刻字も鮮明に残る。
 高知での初めての航空事故は大正6年10月3日、多くの見物人の眼前、高知市の上空1200mでおきた。アメリカ人飛行家フランク・チャンピオンを偲ぶ碑は、はるかに神田の墜落現場をのぞむかのようにたっている。
 金子橋から金子橋遺跡、自由民権運動家であり思想家であった馬場辰猪誕生地、道を隔て北側には浄土宗称名寺がある。頻繁に走りぬける車の間に、侍達が渡った金子橋の姿は偲べないが、門柱に「金子橋○○番地」と、濃いブルーの中に浮いて輝く白文字の町名表記板をみつけ、まち歩きの醍醐味を分け合いつつお昼ご飯の場に急いだ。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子