第3回 高知城搦手門から北門・錦川へ

高知お城下物語2017
第三回 高知城搦手門から北門・錦川へ(探訪地/西広小路→丸の内→北門筋→錦川)

①高知城歴史博物館
②高知城内堀跡(県庁西)
③高知城西堀跡と曲輪跡
④高知城西広小路の変遷
⑤致道館跡(薬医門)
⑥高知城搦手門跡
⑦高知県庁、高知刑務所跡(城西公園)
⑧江ノ口川旧河道
⑨寺田寅彦邸跡
⑩尾戸焼窯跡
⑪火力発電発祥の地
⑫高知城江ノ口川岸高知城石垣
⑬高知城北曲輪跡
⑭辷山化石岩魂
⑮大町桂月誕生地
⑯高知女子高等女学校跡地
⑰大川筋武家屋敷(手島家)
⑱小南五郎右左衛門邸跡
⑲渡辺弥久馬邸跡
⑳坂崎紫蘭誕生地
㉑廿代通開通記念碑
㉒昼食(土佐御苑)(復習講座・懸賞クイズ)
 4月9日、高知城追手門前、午前10時、好天のなか第3回高知城下「郭中」のまち歩き「高知城搦手門から北門・錦川へ」はスタートした。
 追手門から堀に沿い南門前から西に、平成19年史跡に追加され整備された内堀跡西側地区に入った。ここは元禄や享保の大火の経験をふまえ、防火に備え周辺の景観をめまぐるしく変えた。その変遷の様子を古地図の上で確認しながらしばし憩う。
 西の城門搦手門跡の東西に現存する石垣。そこは入母屋の本瓦葺、重層の城門が北面して建てられ、荘厳な偉観の想定も容易である。道を隔て「致道館並陶冶(とうや)学校跡」の碑は重厚な門構えを背にたっている。県立武道館の正門だが、この薬医門も変遷の歴史を知っている。文久2(1862)年、藩士の教育機関「文武館」がスタート、「致道館」と改称し明治3年には、一部校舎が「高知県庁」となる。5年に致道館は廃止され、7年には小学校教員養成の「陶冶学舎」、のち「陶冶学校」から「女子師範学校」となる。明治17年県庁移転後は「刑務所」、そして「県立武道館」へと歴史を重ねる。
 手にする「寛(かん)文(ぶん)己(つちのと)酉(とり)高知絵図」は歩人を尾戸に誘う。城西公園の櫻花が江の口川川面に映えて美しい。小津橋を渡る。「天災は忘れられたる頃来る」と刻む寺田寅彦記念館は左前方に見える。古絵図にみる江の口川の流れは、ここで尾戸の小丘に当たり南に折れ辷山の下を流れる。その小丘の南斜面に、7室前後の登り窯らしきものと、3棟ほどの家屋がある。陶房や陶工の住居であろう。南には招かれた指導者久野正伯の宿所という「谷の坊」もある。いまは尾戸の小丘はなく、「尾戸焼窯跡」の碑だけだが、道に沿って東西に50mほど宅地や駐車場が路面より120~30cmほど高い。小丘の痕跡であろう。
 高知城橋北端は大川筋火力発電所跡、橋の南端には江の口川畔の高知城石垣が現存し、北門脇の船着き場を髣髴させる。ここ北曲輪は米蔵や武器庫が並ぶ城の物資集積場所でもある。北門にちなむ北門筋には、旅と酒を愛し、美文の韻文で人々を酔わせた大町桂月の誕生地がある。「大川筋武家屋敷資料館」は豊栄橋を渡るとすぐ左である。藩政末期200石から350石程度の馬廻格の中級武士屋敷である。武者窓や与力窓、突き上げ窓を揃えた長屋門は興味が沸く。
 廿代町の坂崎紫瀾の屋敷跡、そこは「汗血千里の駒」に龍馬を想わせ、刻された「民権踊り歌」は、自由民権思想宣伝に奔走した彼の行動力に敬服させる。
 廿代橋は、寛文年間(1661~72)大川筋沿いに住み始めた武家達の町と連絡のための架橋である。町名は大工頭加藤治部の二十代(120坪)の宅地にちなんだものという。
 橋を渡れば第3回まち歩きのゴールである。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子