下町第6回 鉄砲方足軽のまちから「櫻井」の跡へと歩く

鉄砲方足軽のまちから「櫻井」の跡へと歩く

①掘割と橋の記憶(菜園場橋の欄干)
②第5尋常小学校跡地
③細川潤次郎誕生地
④永野海軍大将誕生之地
⑤櫻井跡
⑥秋葉神社・清澄神社
⑦岡本寧浦先生塾舎跡
⑧共行社址
⑨山住神社
⑩県立中央病院跡
(江陽学舎・城東商業学校・高知女子商業学校・橘高等女学校・城東高等学校・高知学園・高知学園工業高等専門学校・高知東高等学校)
⑪多賀神社
⑫畝丘樹下神社(萬度神社)
~鉄砲足軽の町から「櫻井」の跡を歩く~

12月23日午前10時、高知城下を歩く最終回、最後尾の参加者が延べ960人目のアンカーであった。堀川北岸に一部保存された菜園場橋の欄干に、賑わった往時の四ツ橋の光景を重ねながらスタートした。菜園場交差点から田淵町の「高知市立第五尋常小学校記念」碑前に着く。明治の新教育制度から、現存する第四・第六小学校を重ね、今は消えた第一・第二・第三尋常小学校に思いをはせる。
道端に建つ田淵町、南新町の案内標識に町の由来を確認しながら、細川潤次郎誕生地を目指す。幼時から土佐の三奇童と呼ばれ、中浜万次郎に英語を、高島秋帆に砲術を学び、吉田東洋の信頼を受けて「海南政典」「海南律例」の制定に参画、開成館では洋書翻訳の訳局主任としてこの町の誇る人物である。
新堀川畔の「櫻井」跡への途中、「長野海軍大将誕生乃地」の碑前に足を止める。真珠湾攻撃の作戦を指導し、海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長の三長官を歴任した日本海軍の歴史の中のただ一人である。昭和11年新町青年会建立の碑である。
新堀川に架かる櫻井橋、その東たもとに「櫻井」の記念碑がある。1800(寛政12)年、城下町奉行馬詰親音は、ここに土佐最初の揉貫井戸を掘らせ良質の飲水を得た。新町はもと潮田、良質の水はなく江の口川から流れくる川水を飲水としていた。親音は傍にあった櫻の木にちなみ櫻井と名付け、後世弘法大師に功績が奪われるかもと気遣い記念碑を建てたという。櫻井の跡はいま道路の真ん中となり、日夜車の下であがいている。秋葉神社の祠もある。道を挟んで北にも清澄神社がある。新町にはこうした小さい祠が各所にある。秋葉神社は火鎮めの神、清澄神社は水の神、大山衹神社は山の神として大切に祭られ続けられる。
すぐ近くに岡本寧浦の塾跡がある。道脇の「岡本寧浦先生塾舎址」の標石が教える。京都西本願寺で仏典研究に勤しんだが、のち儒者に転向、さらに江戸にでて佐藤一斎や安積艮斎に経学を学び兵学も修めた。弘化3(1846)年に塾を開き、門下生は1000人を越えたという。間崎哲馬・清岡道之助・清岡治之助・岩崎弥太郎・河田小龍なども門下生に名をとどめる。
江の口川南堤は鉄砲町。江の口川堤防警護のため、鉄砲方足軽を住まわせたことに由来する。足軽は後に農人町に移住させ、一時は寺院並ぶ「新寺町」とも呼ばれた。刎橋の底井流から新町分の西はずれを南に流れる井出渕の流れがあった。菜園場から農人町を経て下知の田んぼに流れる小流で、真澄川あるいは秋津川と呼ばれ清らかな流れで、揉貫井戸ができるまでは大切な用水であり制札によって保護されていた。
共行社の跡地に寄る。自由民権運動に呼応して結成された結社で水野寅次郎を社長とする270余の社員をもつ有力結社であった。しかし立志社を共和主義と批判し「共行社の分離」で知られる政社である。有信、発揚、修立、嶽洋、回天と歩いて学んだ成果を口にしながら北新町を東に進む。途中「10円以上お賽銭入れないで」と掲示された山住神社を経由して県立中央病院跡地に出る。この地は江陽学舎に始まり城東商業学校・高知女子商業学校・橘高等女学校・城東高等学校・高知学園・高知学園工業高等専門学校・高知東高等学校と変遷の歴史をもつ学園跡地でもある。東隣の多賀神社は、山内一豊が江州長浜からの勧請の社、境内の手洗鉢に寄進者野村茂久馬の名を発見して喜ぶ参加者は町歩きの成果であろう。
田淵町の畝丘樹下神社(萬度神社)が最後の立ち寄り場所である。なんと読む?ウネオコノモト神社、通称オイゲサマという神社である。神母は農業の神、豊穣の神であり開発された地域を守る神様である。
お昼は高知プリンスホテルのランチであった。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子