下町第5回 近代化の拠点開成館跡から三ツ頭番所・四ツ橋へ歩く

下町⑤近代化の拠点開成館跡から三ツ頭番所・四ツ橋へ歩く

①掘割と橋の記憶
②菜園場と秋葉の小祠
③武市半平太道場跡(横堀公園・「木屋」と西郷どん)
④大鋸屋橋(千歳橋・高橋)
⑤九反田地蔵尊
⑥御米蔵(第1小学校)
⑦東唐人町・雑喉場
⑧開成館跡
(寅賓館・立志社・立志学舎・海南学校・憲政館・高知市憲政記念館)
⑨松ケ鼻番所跡(三ケ頭番所跡)
⑩北光社移民出航の地
⑪農人町、秋葉神社
~四ツ橋から菜園場、近代化の拠点開成館跡、三ツ頭番所、農人町へ歩く~

11月25日午前10時、寒さが肌にしむ朝であった。カルポート前の広場、そこは城下町の掘割が交差し、西に幡多蔵、南に藩の米蔵、多くの船が繋留される掘割の岸辺があった。九反田魚市場も中央卸売市場も、掘割の交差点に架けられた四本の橋も、それぞれ異なった景観を演出して賑わう声に沸いていた。いまは高いビルと黒い舗装の上を走り去る自動車に、移ろう歴史の景観が去来するのみとなった。
菜園場交差点から横掘公園を目指す。道かどの秋葉神社脇の町名表示板に、藩主用の菜園所のあったことに由来する町名であることを確認する。その後寛永年間(1624~44)には、北に新町、東に農人町、さらに幕末には南に大鋸屋橋が九反田への道をつなぎ、商人街として発展していく過程も教えられた。
 横掘公園は「武市半平太邸跡及び道場跡」の碑が歩人をひきつけた。坂本龍馬に中岡慎太郎、岡田以蔵、そして豪商「木屋」から西郷どんにと話題が広がらないとうそになる。各自おもいおもいに博学ぶりを披露しながら、大鋸屋橋から「九反田地蔵堂」に足を運んだ。堂前の「鬼頭良之介」や「仲代達也」寄進の燈籠になぜここに?と疑問を投げる。宮尾登美子の「鬼龍院花子の生涯」を重ねながら「九反田地蔵尊由来」の説明板を読んで納得した。
九反田公園に出る。堀川は初めここを迂回して鏡川に通じていた。その東岸に藩の御米蔵があった。資料の「下町浦戸湾風俗絵巻」で近隣の景観を学び東唐人町を歩いて「開成館跡」に入る。威風堂々「憲政之祖国」の碑に迎えられる。土佐近代化の統括機関であり、教育機関として高く評価される開成館。土佐に開成館がなかったら、いまも日本歴史の中で輝き続ける大政奉還も、明治維新も廃藩置県も、自由民権運動もはたまた三菱財閥も生まれなかったかもしれない。開成館の見取り図や4枚の史跡案内の碑、「憲政之祖国」の碑と「嗚呼不朽」の碑、そして維新三傑らの会見の場を教える碑は、訪ねる人々にここに埋もれた歴史遺産の重さを語り続ける。
昭和56年10月落成の「鏡川大橋」のわき道を抜けて、高知城下三番所の一つ「松ヶ鼻番所」に着いた。堀川沿いに植えられた松並木の突端に位置する場所であったのでこの名がつき、堀川、鏡川、湖水(浦戸湾)の水が交わることから三ツ頭とも呼ばれたと言う。藩政のはじめ野中兼山によって開かれた二つの内陸水路、一つは奥仁淀の物資を、仁淀川、八田堰から弘岡井筋、新川川を通りここに届け、もう一つは奥物部の物資を物部川から山田堰、舟入川を流してこの地に集め、堀川を登って城下に運ばれた。高知城下への東の入口、水上交通の要衝である。
堀川沿いに北海道「北光社移民団出航の地」のモニュメントと説明板がある。明治30(1897)年、坂本直寛、澤本楠弥、前田駒次らによる北光社は、北見に新天地を求めて移住した。第一陣はこの岸壁から須崎、そして関門海峡、日本海を経て小樽港、宗谷岬、網走港から北見に入ったという。貨物船での雑居寝の28日間の船旅は流行病で死者も出し、原生林への最初の鍬入れは、亡くした愛児や仲間たち35人を埋葬する涙の鍬入れだったという。
農人町に入る。寛永2(1625)年、藩は下知村に外輪堤を造り、堤内の耕地を御手先農民に耕作させ長屋を貸与して住まわせた。これに由来する町名と伝わる。町のあちこちに祭られる秋葉神社の小祠が目につく。住人たちの火の災難からの逃れを願う強い願が伝わってくる。
ときわ公園脇から今日の昼食場所プリンスホテルの看板はすぐに見えた。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子