下町第4回 水主のまちから職人のまち・商人のまちを歩く

下町④水主のまちから職人のまち・商人のまちを歩く

①古地図で幡多倉周辺確認(菜園場・カジヤ丁・種崎町・堀川両岸)
②有馬神社(水天宮)・河田小龍生誕地・墨雲洞跡
③得月楼
④西武百貨店・バスターミナル・テアトル土電
⑤伏見稲荷大社
⑥浦戸町・朝倉町・弘岡町
⑦武藤致和先生邸址
⑧秋葉神社
⑨民権ばあさん楠瀬喜多誕生の町 
⑩庚申堂
⑪東唐人町
⑫八坂神社
⑬納屋堀
⑭長岡謙吉顕彰碑
⑮修立社の碑
⑯恵比寿神社
⑰木クリ町
~浦戸町・朝倉町・弘岡町・唐人町・ハタ倉から納屋堀を巡る~

10月28日午前10時カルポート正面集合の計画は、「全国豊かな海づくり大会」への天皇皇后両陛下の式典参加の時間と合致、厳重警戒の中でのスタートとなった。
貞享以前の古地図で当時の風景を確認する。両陛下歓迎の熱気冷めやらぬ中でのスタートである。堀川はハタ倉橋で南に曲がり、藩の御米蔵の南を東にぬけて鏡川に通じていた。しながら堀川の南岸、バス駐車場を西に進む。ここは芝生の土手でその上に松並木が土佐橋までのびている。北岸は種崎町広小路、カジヤ丁があり、堀端には船着場の長い雁木がある。ここは城下の東門戸、昼夜の別なく船頭や筏士の声賑やかな場所であったろう。駐車場の西端に、有馬神社(水天宮)と、河田小龍生誕地・画塾墨雲洞跡の碑がたつ。画人小龍と中浜万次郎、坂本龍馬との出会いや、土佐海援隊士達を鼓舞啓蒙し育てた土地である。幕末の世相を省み歴史を考える時を与える場所である。
料亭得月楼もの建物は「登録有形文化財」として登録されている。西南戦争戦勝の凱旋将軍谷干城の祝賀の日干城が命名したという。宮尾登美子の「陽揮楼」にも話は進む。
浦戸町から朝倉町、弘岡町へと歩きぬける。ともに古町7町に数えられる町である。浦戸町は吾川郡浦戸村から水主を移動させ、朝倉町は土佐郡朝倉村の市町を移し、弘岡町は吾川郡弘岡村住民を移住させたことに由来する町という。
デパートとでん西武にバスターミナル、テアトル土電の洋画劇場。なつかしい思いで話が聞こえる。伏見稲荷大社前から、「武藤致和先生邸址」をめざす。豪商美濃屋の7代致和と8代平道父子は、土佐の地理、歴史の大著『南路志』を世に送った。近世土佐最大の編纂事業である。
街角の秋葉神社から弘岡町を東に進む。民権ばあさん楠瀬喜多誕生の町である。道脇の庚申堂の板壁の説明板にちょっぴり紹介されている。庚申堂は寛永2(1625)年、山伏千養院の建立と伝わり、戦前の夏・秋の祭りには花台もでる盛大さという。庚申信仰の中心は夜籠(よごもり)で、眠ることに対する禁忌が広く民間にも広まっていたことを物語る。
東唐人町に上がる。この町も七古町のひとつ。秀吉の朝鮮出兵の際、長宗我部元親により土佐につれてこられた朝鮮慶尚道秋月城主朴好仁ら30人が、山内入国後、豆腐商いの特権が与えられ、鏡川大堤に住んだことに由来する町名である。明治18年に東西に分けられ、西唐人町は豆腐屋、東唐人町は魚売り等が住んでいた。
納屋堀の跡へと歩く。浦戸町と朝倉町の間の悪水の溝を、忠義が称名寺へ参詣の時に見て、寛永6(1629)年、内意により町民が掘りあけた堀川で、塩・塩干魚の問屋を開く許を得た。その倉庫である納屋が堀端にあり町名となった。しかし次第に浅くなり、舟の出入りもできなくなり、文政年間から順次埋めたてられ一条の小溝を残すだけになった。
幡多倉公園の東隅には長岡謙吉顕彰碑がある。「土佐海援隊文詞・再編同隊長」で、坂本龍馬の智恵袋としての活躍が詳しく紹介されている。邸は浦戸町、現在の得月楼南庭の位置という。公園の東北の道脇には、一円正興を社長とする自由民権運動結社の修立社の碑もある。各地で見てきた多くの民権結社に、民権活動家の熱き熱意に感動しつつ今回の予定地を歩き終えた。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子