下町第3回 材木販売特権のまちから山田番所へ歩く

材木販売特権のまちから山田番所へ歩く

①土佐橋起源
②種崎町弘小路
③辰己屋・虎屋
④横堀に沿うカヂヤ町
⑤材木町(赤岡町・樽屋町・佐賀町)
⑥雁木埋設の地の碑
⑦刎橋 (底井流)
⑧牢屋・牢ノ町
⑨中江兆民誕生の地
⑩御番所跡・山田町
⑪神明宮(武市甚七高朋)・山田八幡宮
⑫神明鳥居と明神鳥居
⑬蓮池町・浅井(佐野屋)
⑭新市町(弘瀬洞意)
⑮紺屋町
⑯魚の棚
梅雨時の晴れ間はことのほか暑さを覚える。日照りを避け堀川の跡を歩き、木陰で土佐橋架橋の経過を知った。目前の高知よさこい情報交流館は、播磨屋・櫃屋などと並ぶ豪商辰巳屋の跡、大年寄の役をつとめる豪商に思いをはせる。東の種崎町弘小路近辺は、南の堀川と東の横堀から浦戸湾に通ずる城下水運の表玄関であった。南川岸には国産改役所が、西川岸には新雁木という木材口乞場もあった。木屋橋から北に折れる。鍛冶町という横丁で、鍛工が多く住んだ時期もあった。掘川端は材木町である。1625(寛永2)年、赤岡・樽屋・佐賀の3町の商人が私費で、横堀から下町の中央まで新堀を開いた。その代償に藩から木材販売の特権を与えられた町である。大量の木材が藩内から集められ木材問屋や製材業が栄えた。大鋸挽や大工が住み、八幡通りは棺屋町という時期もあった。堀端に「雁木埋設の地」の碑がある。江の口川や新堀、横堀を行き来する小船の船着場であり、木材の荷揚げ場である雁木の場所である。長さ20m、高さ2m、大小250個以上の石材で9段積み上げられた石段があった。都市計画道路建設で遺構の消えるのを惜しみ、往年の姿を伝えるべき碑の下に埋めている。
江の口川と横掘りの接点は刎橋である。横堀は刎橋の南で行き止っていたものを、貞享4年に江の口川に掘りぬいた。ところがそこに底井流があり橋柱を立てるのが困難であった。そのため両岸から大木を刎ねだして架橋する特殊工法で作ったという。横掘りの西には藩の監獄(牢家)があった。牢の町の俗称もあり、幕末平井収二郎や間崎滄浪,弘瀬健太らの切腹の場でもある。中江兆民誕生の地もすぐそこである。
山田町は長宗我部元親が香美郡山田村から住民を移住させたのに始まる古い町。ここには城下三番所の一つ山田橋番所があった。古地図には札場弘小路や御番所などが鮮やかに図示されている。その西に神明鳥居をもつ神明宮がある。天保の頃、祭りの神輿は上町下町と広く御渡し、九月の例祭には近郷の百姓達が風邪薬と称して薑を売る風習もあったという。土佐の左甚五郎といわれる武市甚七高朋もこの地出身、神明宮に馬の額献上の話もある。
明治初年高知城から移された八幡宮の社も明神鳥居に守られて近接する。南の蓮池町は、高岡蓮池村から住民移住の古町である。郭中追手筋から通じる街道で参勤交代の行列もこの町を通り山田橋を渡った。南隣の新市町も古町である。岡豊の市町からの移民町で、櫛屋や糀屋、酒屋などの商人町。幕末の絵師金蔵はこの町の出であった。ここから南にわたると紺屋町である。曽我六兵衛ら数人の紺屋が住んだと言う。郭中の帯屋町から土橋を渡ってくる立地のよさから、綿屋、糸屋、呉服問屋などの大店が多かった。そこを過ぎると魚の棚商店街である。三代藩主忠豊が寛文年間(1661~73)、藩の統制品を取り扱う町として商いが許された町という。道幅は3m、南北約100mの通りに22軒が、許された開閉式の陽よけテント(庇)を張り、肩寄せあい商いを続けたという。坂本龍馬も武市瑞山の所に行くのに、酒の肴を買ったかもしれないと商店街は人を呼ぶ。
この路地をぬけると、昼ごはん所「葉山」の門先である。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子