下町第2回 呉服御用商人のまちから小間物問屋のまちを歩く

下町第2回 呉服御用商人のまちから小間物問屋のまちを歩く

①はりまや橋カラクリ時計のカラクリ
②「下町浦戸湾風俗絵巻」に見る堀川の役割
③町筋に「京町」の文字を探す
④使者屋から町会所
⑤堀川終点の殷賑の様相
⑥使者屋橋からの水辺の空間
⑦立志社と自由民権運動
⑧県詞「自由は土佐の山間より出づ」と植木枝盛
⑨土橋と郭中、そして堀川
⑩中州の町か?廿代町
⑪播磨屋と櫃屋の時代
⑫はりまや橋と高知観光
 はりまや橋のカラクリ時計が出発の10時を知らせた。今日も好天である。「高知お城下物語2018」第2回、今日もはりまや橋地下道の陶板絵「下町浦戸湾風俗絵巻」で下町へのイメージをふくらませ、呉服御用商人の町から歩を進めた。
 アーケードの屋根に「京町」の文字が輝いて見える。東入口かつてそこには老舗書店、片桐開成社があった。道脇の町名由来の高札は、京都から来た呉服商で、藩御用商人となった井筒屋宗泉に由来すると教えている。しかしいま、町筋に「京町」の文字を探すのは難しい。もとは国沢城の北限当たり、南側に土堤がある片側町で城畑と呼ばれたこともあると言う。
 京町の西詰には寛文5(1665)年、外来の使者を泊めた「使者屋」がおかれ、のち元文5(1740)年には町会所も蓮池町からここに移された。立志社も明治8年にはここに事務所をもった。公園東入口の「立志社跡」と、「自由は土佐の山間より出づ」の二つの石碑が、自由民権運動発祥地を高らかにうたっている。
 かつてこの界隈は土佐の物資輸送の大動脈であった堀川の終点である。大歓楽街として賑わった時もあった。堀川は埋め立てられ、中央公園や親水公園となったが、都市内での貴重な水辺の空間がなつかしい。中央公園にある「土佐せれくとしょっぷ てんこす」の東側の道路の盛り上がりは、堀川の埋め立てとともに消えた「使者屋橋」の名残である。明治5(1872)年、南新町の吉田長太郎の作った私橋「新京橋」の面影は無く、その名さえ忘れられている。
 郭中帯屋町の東端にかかる土橋(つちばし)は、木の上にシダ類を敷き盛土した橋と説明されるが、今も道路は高まりを見せてその面影を感じさせ続けている。細工町に入る。初めの頃には鍛冶や鋳物師、檜物師、指物師、乗物師、塗師等職人が多く住んだが、のち米屋、魚屋、糸屋、小間物屋などが店を並べるようになったという。
 廿代橋通りに出て江の口河畔へとむかう。古図では江の口川南岸の分流は、廿代橋やや上流から南に折れ、蓮池町と廿代町の中間を流れ刎橋に続いている。堤の上は竹薮になり、町には北川原の小字も残ると言うから、このあたりは中州であったかもしれない。廿代というのは大工頭の加藤治部が住み、お抱え大工の屋敷給地面積が廿代であったからだと言われる。郭内と郭外を区切る堀はこの廿代通りから南へ、堀詰で屈折した松渕にかけて通じていた。新京橋も、土橋もこの堀に架設された橋である。
播磨屋町に急ぐ。江戸初期豪商播磨屋と櫃屋の間の堀川に橋がかけられ、それに通ずる町筋を通称「ハリマヤ丁」と言った。藩政期には播磨屋町の町名はなく、その町名は昭和11(1936)年の町域整理時の生まれである。橋は堀川北の播磨屋宗徳と、南の浦戸町に住む櫃屋道清が往来のための私設の橋が始まりで、後に公道に編入はされるが、坊さんかんがざしを買ったことで広く知られることとなった。宗徳は播州の出で、道清は紀州、ともに長宗我部元親の時に来て、浦戸の城下に住んでいたが後にこの地に移ったものである。
 純信とお馬の恋を語り、播磨屋橋変遷の歴史を語りながら、今日の昼食処「二十四万石」の座敷に着いた。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子