下町第1回 遠州の香りを残すまちから野菜・乾物商のまちを歩く

遠州の香りを残すまちから野菜・乾物商のまちを歩く

①陶板絵「下町浦戸湾風俗絵巻」
②八百屋町町名由来の高札
③砂糖問屋の豪商「田村屋」(川崎源右衛門)、
④西郷隆盛の宿舎「燕雀楼」
⑤懐中蠟燭の種屋太蔵
⑥貸本屋の創始者吉田屋亀助
⑦掛川から入国した職人達の屋敷町
⑧国沢郷の中心地、土豪国沢氏の居城跡
⑨山内氏菩提寺の要法寺跡(「古匠作様御御霊屋跡」・藤栄神社)
⑩桂昌寺跡(細川氏の城館内の(「内山下(うちさんげ)寺院」)
⑪阿波屋小路
⑫中山高揚誕生地碑
 はりまや橋、カラクリ時計が出発の時を知らせ、ペギー葉山は「南国土佐を後にして」を歌い、「高知お城下物語2018」下町第1回のスタートを急がせた。
 はりまや橋地下道の陶板絵「下町浦戸湾風俗絵巻」に描かれた堀川に沿う町々の姿に、下町へのイメージをふくらませた。
 八百屋町という通りから歩き始める。町名由来の高札には「やおやちょう」のルビがある。ほかはすべて「○○まち」なのに?江戸初期には魚商いの魚棚があったが、南の弘岡町に移転させられ、跡に野菜や乾物を商う八百屋(やおや)が立ち並んだことに由来するという説明に納得する。砂糖問屋の豪商「田村屋」の川崎源右衛門、土州名産とうたわれた懐中蠟燭の製造販売で名をはせた種屋太蔵。奉行馬詰権之助の資金援助とはいえ高知における貸本屋の創始者吉田屋亀助らの住んだ町である。田村屋の別邸「燕雀楼」は、薩摩藩主の命で山内容堂を訪ねた西郷隆盛の宿舎というから話題は広がる。
 八百屋町の南詰を西に折れると掛川町である。遠州(静岡県)掛川から入国した職人達の屋敷町である。大工頭、研師、金具師、厩別当、石火矢、鍛冶頭、鉄砲師、鞘師、鷹匠など技術者の名が残る。
 要法寺町に入る。この地は古く国沢郷の中心地、土豪国沢氏の居城跡と伝えられる。山内氏は、遠州掛川から菩提寺の要法寺をここに移した。古地図にも「寺」と表記され広い面積を占め、町名の由来ともなっている。また南国市田村の守護代細川氏の城館内に「内山下(うちさんげ)寺院」として建てられ、長宗我部氏が浦戸に移った時、種崎浦に移転していた桂昌寺も、ここに遷され南に隣り合っていた。二寺院の大伽藍が町を塞ぐ絵図もある。慶安2(1649)年には両寺の界に道を開き、「新要法寺町通」と二分した。要法寺の寺中に「古匠作様御御霊屋跡」がある。藩主山内一豊の弟、康豊の御廟である。明治10年頃は藤栄神社として『皆山集』は記しているが今は見当たらない。
 貞享4(1687)年要法寺の出火で大伽藍は消失したが、翌年には二寺共に潮江に再興された。桂昌寺は今の妙国寺である。
 「魚竹本店」「割烹ねぼけ」が喜ばれた時に思いをはせながら、「阿波屋小路」から堺町に出る。「阿波屋小路」は豪商阿波屋忠七の遺志により、没後14年の宝暦3(1753)年阿波屋一手をもって開通した通りである。忠七は詩、書、画ともに秀で、世に「三絶」と称えられた中山高揚の父である。陸橋南下歩道脇に誕生地の石柱がある
堺町はもと呉服の太物商がおかれ、泉州界の商人が来住したからこの名がある。一時期北の京町とともに他の町では呉服の商いが禁止されるほどの特権も与えられた。
郭中や上町では感じられないと雰囲気の下町風情、町の変遷の推理も楽しみながら、昼食の老舗「寿し柳」の階段を登った。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子