上町第3回 水路の通る「御小人町」を歩く

水路の通る「御小人町」を歩く
①枡形の古池
②枡形町から本町へ
③魚棚と秋葉神社
④鮎屋と松岡寅八(陽暉楼・得月楼)
⑤坂本龍馬生まれたまち記念館
⑥水通町由来(紺屋・鍛冶)
⑦横山蘭亭誕生地
⑧近藤長次郎誕生地(大里屋)
⑨才谷屋跡(町分町衆名付図-天明4年―)
⑩沢村道朔誕生地
⑪左行秀鍛冶場跡(関田新兵衛)
⑫島地正存誕生地
⑬田中茂穂誕生地
⑭思案橋・伊予街道
⑮観音堂・水丁場標柱
⑯保存木
⑰通町由来
⑱御小人町と五役
⑲大倉鷲夫誕生地
⑳坂本龍馬郵便局
 戦国時代、上町周辺は兎狩のできる原野であったという。17世紀中頃の古絵図にも、枡形より南は蛇行した河川の跡を思わす幅広い「古池」が、南土手(現鏡川堤防堤防)まで続き周辺には何もない。枡形町(現本丁筋)、水通町より北に足軽町・町屋の区画があるだけである。上町は北から南へ順次発達した町並と想像できる。
 水通町に向かう。道路に周辺の紺屋が共同で作った用水路が通る町から来た町名である。職人や商人の多い町で、紺屋の他にも鍛冶、鞘師、鍔師、研師等の刀工やそれに付随する職人も多かった。東端部に本丁筋と南の通町への横丁の魚の棚という魚商の座があった。そこの鮎屋は山内家出入りの魚商人、鮎屋久平の長男寅八こそ、「陽暉楼」から「得月楼」へと料理業に新風を入れた松岡寅八である。水通町三丁目の里川屋。そこは「近藤長次郎邸跡」。河田小龍、勝海舟、亀山社中からユニオン号購入、そして独断留学計画から亀山社中社規違反で切腹、29歳の命を絶つ。各自競って持前の知識を披露する。坂本家の本家才谷屋の前、天明4年の「町分町衆名附図」に見る豪商の邸構え、その大きさを現地で実感する。山内家御用鍛冶の関田勝広、かの刀工左行秀の土佐招致にも尽力し、行秀も彼の鍛冶場を使ったという。土佐最初の蘭学医横山栄(えい)久(きゅう)、御典医の子として生まれ、医師や文化人の沢村道朔(どうさく)。土佐勤王党員として活躍した浜田守之丞(もりのじょう)、島地正存(まさなり)、上田宗児(そうじ)。新しくは牧野富太郎、寺田寅彦と並ぶ自然科学の世界的学者の魚類学者田中茂穂もこの町で育った。
 制札が目についた。寛政6年(1794)年、藩庁建立の高札「水通町溝筋之事」である。「道具や野菜類に至るまで洗ってはいけない。ごみなどどんなものでも流してはいけない。漬け置きしてはいけない。」などとある。紺屋が染物をさらす為の流れが、郭中堰が出来て以来生活用水となった為である。
 水通る流れに逆らって上流へと歩く。いまは見かけない「皮梅科」医院を知らせる門柱に気づく。目前の思案橋から伊予街道に話題を移し、時の流れを語りながら歩く。
 水通町から通町をめざす。道脇の秋葉神社や、行き場を失い便宜的に建てられた「水丁場」の標柱に微笑みかけて、これも移転されて道より一段低い観音堂に下りる。もとお堂は思案橋畔にあったが、ここに移したとの説明石碑は親切である。保存樹林のイチョウの大木も、昼の太陽に輝き、歓迎の意を表し黄葉をそよ風にひらりと落とした。
 通町は人家も点在の一貫しない町であったが、慶安2(1649)年、町筋が整理され一筋の通りになった。はじめは武家屋敷もあったがのち武家に召使われる中間(ちゅうげん)などが住むようになり、その人たちの通称から「御小人(おこびと)町」とも呼ばれていたという。
 1本筋の通町、昼食の「魚貴」をめざしてただひたすらに歩いた。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子