第1回 御馭初(おのりぞめ)の道から勘助ロードに

高知お城下物語2017
第一回御取初の道から勘助ロードに
(探訪地/升形→本町→帯屋町)

①野村茂久馬像(みどりの広場内)
②家老五藤家正門(現・大名)
③高知城内堀(現・大名前の橋)
④片岡健吉像(県議事堂前)
⑤福岡孝弟誕生地(猿田皮脂科前)
⑥大西正男胸像(ダイアパレス升形前)
⑦川崎幾三郎邸
⑧織田歯科歯院
⑨升形・水通町水口(出雲大社西側)
⑩出雲大社
⑪南北朝古戦場跡地(出雲大社前)
⑫深尾邸南櫓跡(本町電ピル)
⑬国道標石(県庁前交差点)
⑭アーク灯模型(デュボスク式アーク灯)(本町電ピノレ南)
⑮堀詰(松淵)
⑯中央公園堀跡・立志社跡碑 他(中央公園)
⑰帯や勘助ら商家(帯屋町名発祥地)
⑱吉田東洋暗殺の地(帯屋町・酒田長宗我部前)
⑲昼食(復習講座・懸賞記念品クイズ)
 「高知お城下物語2017」の第1回は2月12日であった。御馭初、それは土佐山内家の重要な正月の軍事セレモニーである。定例御馭初は正月11日。もちろん旧暦である。さる2月12日は旧暦1月16日、城下の季節実感を狙って5日違いの日曜日を選んだ。
 その日藩主は、乗物で城中二の丸から、家臣等7、80人を従えて深尾邸をめざした。我ら一行は追手門前に集合、藩主たちが御馭初に臨んだと同じ堀端を南に下って、五藤邸の正門前から枡形をめざした。総勢40余人であった。
 「枡形」に屯集し出を待って「乗出」から一騎ずつ一気に「堀詰」まで八町を疾走する。この光景を江戸の文人斉藤昌水は「甲冑を帯し、馬上にて家々の旗さし物、又母袋をかけ、一騎つつ出てつらなるは八町あまりの屋形筋あり。朝より夕に至るまてひきもきらす、千騎に及ひて出るよそほひ、かねて江府にて聞及ひし此事、天下にならひなき壮観なり」(『皆山集』)という。県庁前電気ビルは藩政期深尾家の邸、その馬場筋側に構えられた櫓には、床几(しょうぎ)に腰を下ろした藩主が、着飾り疾走する家臣たちを閲兵する。庶民たちも馬場筋南側に敷いた筵に座って見物は許される。数日前馬場筋の整地にかりだされた百姓もいたであろう。
 目前の電車軌道の敷設も、最初は「乗出」から「堀詰」である。明治37年5月、御馭初の道と同じ区間で川崎幾三郎の手によるものである。高知に電灯を灯し、土佐高校の創立も彼であった。重厚な門構え、「川崎幾三郎」の表札前を通ってきたばかりである。堀端にたつ「野村茂久馬」の像にも触れた。明治の川崎、大正の宇田友四郎、そして昭和前期の野村と、高知を代表する経済人にも会えた気がする。
 「堀詰」を過ぎれば「帯屋町筋」、この地の豪商帯屋勘助、その名は今も町名となって残る。この筋には藩侯や上級武士の御屋敷が多く並び、藩の会所もあり、お屋敷町とも会所筋と言った時期もあった。文久2年6月8日夜、吉田東洋は藩主への『日本外史』で本能寺の変を講義しての帰路、土佐勤王党員の刃に倒れた。その血痕はいまも繁華街の雑踏の下であろう。会所の揚り屋で、切腹の罪に問われた土佐勤王党主武市半平太を偲ばせる碑もまた帯屋町筋である。
 道端に残された数々の歴史の痕跡、それはいまも鮮やかに高知の歴史を彩り人々の心を打ち続ける。一歩一歩足を進めるその前に広がる歴史の風景、それは刻々と変化して知的好奇心を高ぶらせる。ここにまち歩きの醍醐味がある。
◆まち歩きルートマップ(古地図)
出典:安芸市立歴史民俗資料館蔵『高知御家中等麁図』
◆まち歩きルートマップ(現在)
◆まち歩きの様子