土佐の歴史特集

【王政復古~廃藩置県】

大政奉還と王政復古

 行き詰まった土佐藩は、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が長崎で坂本龍馬(さかもとりょうま)と面会し、協力を求めます。後藤は坂本が提案した大政奉還(たいせいほうかん)(※注9)建白(けんぱく)を実行するため京都へ向かい、土佐の寺村左膳(てらむらさぜん)・佐佐木高行(ささきたかゆき)(※注10)、薩摩(さつま)の西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)(※注11)らに提案し、賛同してもらいます。
 こうして慶応三年(一八六七年)六月二二日、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と坂本龍馬(さかもとりょうま)立ち会いのもと、薩土盟約(さつどめいやく)が結ばれました。その内容は、諸藩から幕府に政治の決定権を朝廷に返上するよう働きかける、もし拒否すれば武力行使で徳川幕府を打倒するというものでした。
 後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と西郷隆盛(さいごうたかもり)たちだけでなく、世間の見方は、幕府は大政奉還(たいせいほうかん)を絶対拒否するだろうと見ていました。西郷はそこに注目し、幕府と戦う大義名分を得る手段と解釈しました。それゆえ土佐藩からも兵隊を出すこと、将軍職廃止を建白(けんぱく)書に明記することが約束されました。
 後藤から大政奉還(たいせいほうかん)の提案を聞いた容堂(ようどう)は土佐藩論とすることを認めます。しかし、藩の兵を京都へ送ることは絶対に認めませんでした。さらに建白(けんぱく)書の条文から将軍職廃止の条項を削除したのです。これを知った西郷らは、九月七日、後藤に対して盟約の破棄を通告します。
 このような意見の違いが見られたものの、後藤らのねばり強い交渉と幕府への説得が実を結び、一〇月一四日、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、天皇へ大政奉還(たいせいほうかん)を願い出ました。
 しかし、政治手腕にたけた慶喜(よしのぶ)が新政府に加わると、大きな政治変革を行うことができないため、あくまでも慶喜(よしのぶ)排除を図る西郷・大久保らは、岩倉具視(いわくらともみ)ら王政復古(おうせいふっこ)派の公卿(くぎょう)とともに、一二月九日、王政復古(おうせいふっこ)のクーデター(※注12)を行います。ここに鎌倉幕府(かまくらばくふ)以来六五〇年以上続いた武家政権(ぶけせいけん)は終わり、天皇の下での合議制(ごうぎせい)による新政府が発足しました。
 その後開かれた小御所会議(こごしょかいぎ)(※注13)に慶喜(よしのぶ)の姿は在りませんでした。容堂(ようどう)ら新政府の重職についた大名たちのほとんどは、慶喜(よしのぶ)の新政府参加を求めていました。しかし、クーデターの成果が水の泡となると強い危機感を抱いた薩摩(さつま)藩は、武力行使による徳川家との全面戦争を決意しました。
 そして明治元年(一八六八年)一月三日、京都鳥羽(とば)で、薩摩(さつま)藩兵が旧幕府軍へ放った一発の大砲によって、戦争が起こってしまいます。新政府軍と旧幕府軍の戦いは一年半続きました。
注9 将軍・徳川家が、政治を行う権利を天皇に返すことです。

注10 土佐藩の舵取りを任された重臣です。幕府による政治の限界を感じながらも、徳川家を救いたい土佐藩は行き詰まっていました。坂本の大政奉還(たいせいほうかん)の案は、幕府は無くなりますが、徳川家を救える可能性のあるもので、寺村(てらむら)や佐佐木(ささき)は光を見出しました。

注11 薩摩藩(さつまはん)の重臣で、この時期から明確に幕府を倒すことを考え始めた二人です。

注12 「王政復古(おうせいふっこ)の号令」とは、天皇が政治を司る政治体制を構築するものです。そのルーツを初代天皇の時代にまでさかのぼることで、これまでの政治体制を否定し、大きな変革が起こったことを強調しました。

注13 王政復古クーデター後京都御所で開かれた会議。この席で徳川慶喜(よしのぶ)の官位(かんい)・領地(りょうち)返上が決定されました。これに異を唱える容堂(ようどう)は「一部の者が幼い天皇を抱き込んで意のままにしている」という意味の発言をし、岩倉具視(いわくらともみ)にとがめられました。
出典:「幕末維新の土佐 人物紹介」