土佐の歴史特集

【ペリー来航から王政復古まで】

薩長同盟

 その頃、長州藩に対する処罰の内容(長州藩が拒否した場合は武力行使する)や欧米諸国による条約勅許(ちょっきょ)要請(※注7)など、重要問題の解決をめぐって幕府は紛糾(ふんきゅう)していました。
 薩摩(さつま)藩は、諸大名が集まって協議する合議制(ごうぎせい)国家の形成をはかります。しかし幕府と彼らに追従する朝廷内上層部にことごとく阻まれました。新たな方向性を見出せない幕府と朝廷に見切りをつけた薩摩(さつま)藩は、新たな協力者を必要としていました。
 一方、禁門(きんもん)の変(へん)(※注8)で「朝廷の敵」となった長州(ちょうしゅう)藩は、幕府との全面戦争に備えて、中央政局に弁護人となってくれる勢力と西洋式の兵器購入を援助してくれる者を必要としていました。
 ここに薩長(さっちょう)の立場を理解していた土佐藩出身の二人、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と坂本龍馬(さかもとりょうま)が薩長(さっちょう)の仲立ちをして、慶応二年(一八六六年)一月、薩長同盟(さっちょうどうめい)が結ばれたのです。薩長同盟(さっちょうどうめい)の内容は、長州(ちょうしゅう)藩の政治的復権を図るために、薩摩(さつま)藩が全面的に協力することを約束したものです。
注7 日米修好(しゅうこう)通商条約を結んだ際、横浜・長崎・函館(はこだて)のほかに兵庫(ひょうご)(今の神戸港)・新潟(にいがた)も貿易港とすることになっていました。しかし兵庫は京都に近いからという理由で慶応三年(一八六七年)まで保留となっていました。

注8 元治元年(一八六四年)七月一九日、前年の八月一八日の政変で失った勢力回復をはかる長州(ちょうしゅう)藩と、これを防ぐ幕府軍が京都御所(ごしょ)のまわりで激突した戦争。長州(ちょうしゅう)藩は、御所に向けて発砲したため「朝廷の敵」となり、孝明(こうめい)天皇は幕府に長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)を命じました。
出典:「幕末維新の土佐 人物紹介」