土佐の歴史特集

【ペリー来航から王政復古まで】

後藤象二郎らの富国強兵策

 勤王党(きんのうとう)弾圧後、容堂(ようどう)は新たな政治の方向性を探るため、家臣を西日本各地に派遣して情報収集させました。しかし、家臣たちから寄せられる情報には差異があり、状況がつかみきれませんでした。
 また、東洋(とうよう)の死後中断していた富国強兵(ふこくきょうへい)策を後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に命じて再開させます。その要として設立されたのが開成館(かいせいかん)(※注5)です。しかし、開成館(かいせいかん)事業は、庶民の生活を圧迫するもので(※注6)、藩内から多くの批判がありました。
 行きづまった土佐藩は次の展開を求められるようになります。
注5 慶応二年(一八六六年)二月、高知市九反田(くたんだ)に開設。技術教育(航海技術・砲術など)と殖産(しょくさん)事業(藩内で使える紙幣の発行や、長崎で土佐の産物を売ることなど)を展開しました。
 
注6 特産品をたくさん交易に回したことによる品不足、軍艦と武器の購入費調達のため藩札(はんさつ)を乱発し、物価の高騰(こうとう)を招きました。
出典:「幕末維新の土佐 人物紹介」