土佐の歴史特集

【ペリー来航から王政復古まで】

土佐勤王党の登場と崩壊

 東洋(とうよう)の死後、藩の主導権は保守的な山内家一門や家老たちの門閥派(もんばつは)と勤王党(きんのうとう)が握ることになりました。
 文久二年(一八六二年)、容堂(ようどう)のあとの藩主となった一六代藩主豊範(とよのり)が江戸へ行く際、武市(たけち)も同行し、尊王攘夷(そんのうじょうい)を目指した活動を行います。その一環として、朝廷の公卿(くぎょう)と協力して、幕府に攘夷(じょうい)実行を促しました。
 しかし、容堂(ようどう)は武市(たけち)ら下級武士が政治に関わることを嫌っており、勤王党(きんのうとう)の弾圧を開始します。
 翌年、京都で「八月一八日の政変」(※注4)が起こり、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が崩壊すると、土佐藩は、武市(たけち)はじめ主立った勤王党(きんのうとう)員を捕縛しました。武市(たけち)は牢に入れられ、一年九ヶ月後に切腹となりました。
注4 長州藩(ちょうしゅうはん)などの尊王攘夷(そんのうじょうい)派を京都から追放した事件。これにより、全国的に尊王攘夷(そんのうじょうい)派の人々が弾圧され始めました。
出典:「幕末維新の土佐 人物紹介」