土佐の歴史特集

【ペリー来航から王政復古まで】

吉田東洋の藩政改革

 藩主に就いた容堂(ようどう)は、分家の出身ということもあり、思うような藩の改革は出来ませんでした。それを一変させたのが、嘉永六年(一八五三年)のペリー来航です。開国を求めたアメリカ人のペリー来航は、日本中に大きな衝撃を与えました。
 それは鎖国か?開国か?という単純なことではなく、日本が独立国家として生き残ることが出来るのか?が問われる事態に直面したのです。
 すなわち、幕府と諸藩が一致団結して非常事態に対処できる国家の形成、その運営に必要な人材の登用と育成、欧米諸国の科学技術を導入した軍事力および生産力の向上という課題が突きつけられたのです。
 土佐藩の政治を司る吉田東洋(よしだとうよう)は、容堂(ようどう)の全面的な支持のもとで、上の課題に取り組む様々な政策(※注1)を実行しました。しかし、彼の政策は、挫折してしまいます。尊王攘夷(そんのうじょうい)(※注2)を目指す武市半平太(たけちはんぺいた)率いる土佐勤王党(きんのうとう)(※注3)が東洋を暗殺してしまったのです。
注1 東洋(とうよう)が取り組んだ政策は、
①階級制度改変、②法律の制定、③藩の学校の開設、④大砲製作、⑤対外貿易を始めるため藩士を長崎へ派遣。

注2 天皇を尊び、従来の通り外国人との交流を限定する考えのことです。この考えの人たちは、天皇を頂点とした独立国家を創ることを目指していました。

注3 文久元年(一八六一年)年八月、武市半平太(たけちはんぺいた)をリーダーとして組織された政治団体。加盟者は、坂本龍馬(さかもとりょうま)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)ら一九二名を数えました。彼らの身分は、下級武士が大半でした
出典:「幕末維新の土佐 人物紹介」